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お前はまだ子供だから、知らなくてもいいのだよ。





そう兄さまは仰って、私の頬をきゅっと摘んだ。


兄さま、でも私はもう十四です。上目に兄さまを見ながらそう思った。

だけれど、それを口に出して言い立てたりしない。もう枯れかけた紫

陽花の花から、先ほどあがった雨の雫がぽとりと落ちた。そろそろ梅

雨も終わるのだろう。

兄さまは満足したように笑って、私の頭に手を置いた。





「直子、水羊羹が冷えているからね。よねさんに切ってもらいなさい」





そう言う兄さまのお顔は優しく、いじらしさを孕んで美しい。はあい、

と、なるたけ子供らしく努めて返事をして、私は走って台所へと向

かった。去りながらふと思う。絶望とはどんなことを言うのだろうか。

自身の精神を形作るものの内の多くが失われてしまうということ?

それとも、破壊と創造のうちの前者だけが、部分的な虚無と喪失

をもたらすということ?なんにしろ、私は今深く絶望している。そし

てその絶望がこれから長い間、ともすれば一生、続いて行くかもし

れないと自覚している。

雨上がりの空は目に痛いほど青く、それは裏腹に私の心を裂いた。

吸い込んだ息の中の土の香にむせそうになりながら、それでも必死

に私は呼吸する。見なさい、生きている!皮肉のようにそう考えて、

顔をしかめた。私はこれからもずっと生きている。私は。

なんてことだろう、そんな、そんな悲しいことがあるだろうか。私だけが

生きる、なんて。絶望、これが絶望なのだ。




私の姿が見えなくなるとすぐ、兄さまは横になってしまわれた。

青い顔をして、お腹を押さえて。ぎしりときしんだ音を立てた廊下で、

私は小さなため息をついた。ばかみたい。ぽつりと呟いて、私はだれ

も見ていないうちに溢れる涙を拭った。天井を睨むようにして、泣き

そうな気持ちをやりすごす。兄さまは癌なのだ。兄さまは、死ぬのだ。

馬鹿な兄さま、日に日にやせ衰えていくお身体に、直子が気が付か

ないはずありますか。



本当にわかっていないのは兄さまの方で、兄さまは大馬鹿だ。私に

悟られぬように気丈に振る舞ってみせたって、やがて死は例外なく

やってくるのに。

それはやさしさなどには、なりえないのに。


そして、とそこまで考えてから、私は固くこぶしを握った。


(私は、悔しいのだ)



兄さま、兄さま、何故私に教えて下さらないの。直子はそんなに幼い

かしら。唇を噛んでも、薄い痛みが広がるだけで、誰も答えをくれない。

私はもう十四だ。と、その月日の短さを知らない私はまた思った。




しかし同じように、思い出す歳月のどの場面を切り取っても、笑って

いる兄さまがいるのだと気付いていた。十四年、私が目を向ければ

兄さまが必ず白い歯を見せて笑んだ。もしそれがなくなったなら、私

はどうなってしまうのだろうか。ああ、この時間のなかでは、私に理解

できたものはあなたへの愛惜の念だけだというのに。

そう考えてみるなら兄さまの沈黙ももっともであるのかもしれない。










そう、いいかえすことはできるのだ。


直子はもう子供じゃあありません。直子は知っております。

だけれど、だけれどそれでも、兄さまが望むのなら。それが兄さま

の弱さだというのなら。









(私はいつまでも、子供のままでおりましょう。死にゆかんとする美しいあなたのまえでは。)








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